2024年4月17日水曜日

先週(4/14)の講壇

赦されるために赦そう」 

マタイの福音書18章31〜35節

 イエス様は「赦す」事の大切さを例えで話されました。主君に借金のある家来とその家来に借金をしている人です。家来はとてつもない金額を免除されたにも関わらず自分にわずかな借金がある人を赦しませんでした。
 この様な人は神様もその人を赦さないとイエス様は強調されました。私達も決して払いきれない罪の代価をイエス様がその身を持って帳消しにして下さったのです。
 受けた恵みを常に覚えておくなら自分もまた自分に危害や傷を与えた人に赦しを与える事が出来るのです。聖霊様の助けと導きを頂いて実践していこうではありませんか。(要約)

先週(4/7)の講壇

種蒔きのたとえから」 

マタイの福音書13章18〜23節

 イエス様は福音の種である御言葉を通して人を救いに預かるために、四つの類型のタイプがある事を例え話しを用いて語られました。四つの類型を通して全ての人の心を網羅する事が出来るからです。
 「道端に蒔かれた種」、「岩地に蒔かれた種」、「茨の中に蒔かれた種」、「良い地に蒔かれた種」に分類されたのです。それぞれ御言葉に対して閉ざされている心から、御言葉に対して開かれた心までを表しています。
 イエス様がこの様に語られたのは、初めはどの様な頑なな心であっても聖霊様のお働きの中でいつかは良い地となり福音を聞いて100倍、60倍、30倍の実を結ぶ事を示されたのです。そしてそれらの御言葉を通して伝道の励みにする事が出来るのです。(要約)

2024年4月3日水曜日

先週(3/31)の講壇

復活の過去、現在、未来の意味」 

コリント人への手紙第一15章3〜8節

 復活されたイエス様は私達クリスチャン全ての信仰の土台です。聖書には復活がないなら全ては空しいと言っています。復活は過去に起きた実際的歴史的事実であり、象徴的な事を言っているのではありません。
 聖書は五百人以上の人がイエス様の復活を目撃したと書いてあります。まるで五百人以上目撃したから信じられなかったら行って目撃者に聞いてみなさいと言っているようです。
 また未来に対する出来事です。イエス様だけが復活したのではなく私達もいつか復活します。死は希望と喜びを一瞬に埋没させますが再び蘇る事が出来ると言う私達に与える明確な希望です。イエス様は今も生きておられます。パウロに現れた様に私達の歩む所どこにでも共におられます。神様の力、復活の力が日々皆様のものとなりますように。(要約)

先週(3/24)の講壇

愛による受難克服」 マタイの福音書27章27〜31節

 イエス様は十字架の御業を目前にして総督ピラトの命で兵士達からあらゆる冒涜と屈辱を受けられました。カイサルに風刺して紫色の衣を着せたり唾を吐きかけたりしました。
 イエス様はその様な中でもそれら兵士達が楽しむ行為に黙々と受けられたのです。それは正にイザヤ書で預言されていた事が成就する為だったのです。
 それは父なる神様の御心を全うすると言う前提下にあり、更に罪ある人々、私を救うための全きご従順のお姿だったのです。そこには「愛」と言う完璧な御業がなされていた証拠でもあったのです。それゆえに私達は完璧な救いを受ける事が出来る様になったのです。(要約)

2024年3月19日火曜日

先週(3/17)の講壇

不当な裁判を通して」 マタイの福音書26章57〜65節

 イエス様が父なる神様の御心である苦い杯を受けるべく不当な裁判が繰り広げられました。ちょうどしゅうとから大祭司としてのバトンを受けたカヤパが諮問する事になったのです。
 カヤパはイエス様に対する並々ならない敵対心と反抗心に満ちた人物でイエス様が十字架に進むための最適な人物だったのです。一見すると不当な裁判を起こしイエス様を十字架にかける大きな引き金になったカヤパはただの悪人としか見えません。しかしその悪が皮肉にも用いられたのです。
 ユダと言いカヤパと言い神様のご計画の中にはこの様な悪人も用いられるのです。私達の考えを遥かに超えたところに神様のご計画と摂理があるのです。その中で私達は神様の守りと助けを通して歩んでいく事が出来るのです。(要約)

2024年3月16日土曜日

先週(3/10)の講壇

最後の準備の祈り」 マタイの福音書26章36〜45節

 十字架の御業を目前にしてイエス様はゲツセマネ(油を絞るの意)の園にて激しい霊的戦いの祈りをされました。それは父なる神様から見放され裁かれると言うそれこそ身も心も引き裂かれる痛みだったのです。
 弟子達を連れて祈りに入られましたが弟子達はイエス様の心境を悟る事もなく眠りに就いていたのです。しかしイエス様はそんな彼らの肉体の弱さは十分に理解されていました。
 3度の祈りを終えてイエス様は弟子達に捕えられて十字架に架かられる時が来た事をお伝えになられたのです。それは十字架の目前の最後の激しい祈りであり、父なる神様の御心を成し遂げようとされるイエス様の並々ならぬ決意の時だったのです。(要約)

2024年3月13日水曜日

先週(3/3)の講壇

複雑な思いの晩餐」 マタイの福音書26章20〜28節

 父なる神様の御心でありイエス様にとっては苦い杯である十字架を直前にイエス様は弟子達と最後の晩餐の時を持ちました。それはイエス様が兼ねてから待ち望んでいた時でした。
 しかしその食事の席はイエス様の十字架と共にその場に裏切り者がいる事を伝えなければならない複雑な思いでした。また十字架は神と人間の和解のためのものでもあったのです。
 十字架によって救われた私達は、その和解のつとめを任せられた一人一人なのです。まだ神と和解していないヴィップのためにその役割を全うさせて頂こうではありませんか!(要約)

2024年2月28日水曜日

先週(2/25)の講壇

恵みと権威」 マタイの福音書20章20〜28節

 本文は、神様の聖なる民として歩むことが出来ない存在である人間が、どのように人間が神様の民となり、守られ、エルサレムの町で生きる事が出来るかと言う質問です。
 私たちの何かによるものではなく神の一方的な恵みにより救われ、聖霊の働きにより弱い人間が強められ神様の働きを担うことが出来ます。「あなたがわたしの道に歩み、」「わたしの戒めを守るなら、」「道」とは歩んで行く中での態度や姿勢、品性を言います。日々語られる御言葉に従っていくことです。恵みを受けた者として当然このようにすることです。
 反面「戒め」とは働きのことです。ほんの小さい事に忠実である時、町を支配する者になる。このゼカリヤ書の背景となっている天の法廷に思い通りに行き来することが出来る権威です。この地だけではなく天の御座をも動かす霊的権威が与えられます。なんと素晴らしい事でしょう!(要約)

先週(2/18)の講壇

仕える事とは」 マタイの福音書20章20〜28節

 ゼベダイの妻とその二人の子ども、ヨハネとヤコブはイエス様のところに出て行きお願いをしようと思いました。それをご覧になられたイエス様はご存知ではありましたが彼らに願うことは何かと問われました。
 ゼベダイの妻は、「イエス様が御国に着く時に息子達をイエス様の両脇に座らせて下さい。」と言うものでした。イエス様は彼らに対して、「それは私が決めるのではなく父が決める事だ。」と言われました。
 それ以上に彼らが仕える事を学ぶ様に語られたのです。私達もお互いに仕え合う事が求められています。それを通してヴィップに証しとなるのです。(要約)

先週(2/11)の講壇

喜ばれる信仰」 ヨハネの福音書11章38〜45節

 マルタ、マリアの兄弟ラザロは病気で臨終を迎えました。イエス様はその状況を知りながらもその場には居合わせなかったのです。
 ラザロの死後四日目にようやく葬られたラザロの元に来られました。そして、皆は悲しみの中にいましたがイエス様は彼らをご覧になって霊に憤りを覚えられました。
 イエス様は彼らに、「わたしを信じるなら神の栄光を見る」と言っていた事を想起させました。そして、イエス様は彼らに信仰が主を喜ばせる事の出来る方法であると強調されたのです。私達も与えられた信仰が成長する様に、主は願っておられるのです。(要約)